今俺達が出来る事!!2
引き続き情報共有です。
今テレビを見ていると情報・車の燃料・電気が圧倒的に足りない状態みたいです。
被災地は混乱よりもやりたい事、衛生面が今悩みみたいです。
お風呂・歯ブラシなど。
以下 阪神・淡路経験者の話です。
阪神・淡路大震災と今回の地震では異なる状況も沢山あると思うけど、1995年の阪神・淡路大震災を経験した方のBlogの転載です。
これからの自分の行動に対して、非常に参考になったので日記にのせました。
俺たち人間のど真ん中は『愛』だ!
その事を感じながら、今の日本を想おう。
◆今、東京にいて、震災後1週間で出来ること
『冷静に、自分が出来ることと出来ないことを見極め行動する』
まず、東京は被災地ではなく、電気も水もガスも通っています。
今後の注意は絶対に必要ですが、余震も大きさも小さくなってきています。
その中で、一般の方は迷惑になるので、絶対に現場に行けません。
行くべきではないです。現場に行くのは自衛隊・専門のボランティアに任せるべきです。
顔が見える方がいる方は、その方が必要とするものを送るべきですが、
東京や他の地域で出来ることというと
「節電」「献血」「義援金」「祈り・思いやりの気持ち」だと思います。
◆被災した経験から、天災の場合には意識していること
-余震は気をつけた方がいい。(気を緩めた時に大きいのが来ます。)
-カイロは買っといた方がいい。(寒さだけは本当につらかったです。)
-なんかあった時に燃やしやすいものは持っておくことがいい。
ライター・マッチ・新聞紙(どうしようも無くなってもまず火がたけます)
ちなみに私が、タバコをやめない理由もちょっとだけこういう気持ちもあります。
-水は本気でためておく (これは絶対です)
-お金はおろしておいたほうがいい。(すぐに使えるようにしておくべきです)
-食べ物は意外となんとかなる。(3日たてば日本では大丈夫です)
-トイレの場所・避難場所は決めておいた方がいい。
-靴下は絶対はいた方がいい。(足怪我した覚えありますので、これもすべきです)
◆神戸の被災の時の1週間の状況と、後々思ったこと
@『現場は思っている以上にもっともっと情報が入らない。』
twitter やFB・mixiを使っていてくれることを願うばかりですが、
(わたくしが被災した時は、中学3年なので、携帯もtwitter も
ありませんので、今は情報が入っているかもしれません。でも
電気がないから使い物にならないと思うので、下記も参考になると思います)
まず、情報が入らない理由として『現実を受け止められない2〜3日がある』と
いう事です。今の状況が理解できないので、どーするも何も情報を取得してから
動くではなく、まず動く必要性があるからです。
私の場合、朝、余震で起きて、本格的な直下型の地震になる時は
たってもいられず、ただ、机や棚倒れ、その後部屋の端から端へ動くことを
見ながら耐えるぐらいでした。落ち着いてから「生きてる?」と隣の姉の部屋に
向かって叫んだ事を覚えています。
窓から外を見ても、全然別の景色になっています。
(後で高速が倒れた事がわかりましたが、その時は何か建造物が出来たと思って
しまいました。。。) 家を出ると目の前の家の1階が押しつぶされていて、
小学校の同級生が生き埋めになっている。こんな状況をすぐにのみこめるわけが
ありません。何をしたらいいかわからないまま1日がたってしまう。
確か、その時は、道端に各家族が出てきて、まずは近所の人でどうなの?
どこに行くのがいいの?等と話していた気がします。
阪神震災の場合は、特に私は東灘区で、あちこちから火が
出ていましたので、男は、埋められている人を助けることと、火を消すこと、
女性は、水の確保と、避難所の確保と大枠分けて、動きました。
近くの小学校に集まった方がいいとか、公民館だとかどこに行けば
安全かも全く分からなくなります。1日目は小学校に集まりました。
そこに行けば情報が入るはずという父の話で家族全員で泊まりました。
2日目か3日目に初めて、5駅ぐらい離れた祖母の家に行けましたが、
その時には1階が押しつぶられており、助け出すことも出来ないまま夜になるので、
悔しい気持ちのまま、次の日を迎えます。(結果的に他界してしまっていました)
生きているのか?すらもわからないまま本当に何も、出来なかったです。
結果的に、3日目か4日目に顔だけ確認でき、息を引き取っていることがわかりました。
遺体を取り出せたのは、もっともっともっと後です。
この時まで、一部の方のラジオでしか状況がわかりません。
大丈夫なラジオを持っている人も少なく、TVも見えなかったので、情報は本当に入りません。
少し、余震が落ち着くと、あまりにも人が小学校に火とが多すぎるために、
誰かが、ここの公園や!といってそこが、青木の一部の避難場所になりました。
後々、その場所はテントが立てられ、避難所になっていきます。
暖炉的なものも取られ、よくそこで話していました。
Aデマは出ます。
今のtwitterをみて思うのですが、送る側も必要な情報だとおもうから善意で伝えます。
情報が思っている以上に入らない現地はもっと善意によるデマだらけだと思います。
今になってみるとありえへん!と思うことが実際にはいくつもありました。
「あそこの家事は、◎◎人が放火した!」とか
「◎◎地域は、水が通った!」とか
「ラジオで、今日もっと大きな地震が起きる!といっていた」とか
「◎◎でレイプがあった」とか
記載したら問題になることが多いので記載しませんが、
その時は状況をのみこめないので、信じてしまうのです。
大人が喧嘩している場面もいくつも見ました。
デマは少なかったんだよね?と聞かれた時に「ん??」そんなことはなかったでと思った記憶があります。
なので、現地にいない僕たちはスピードが大事ですが、
えっ。とちょっとでも思ったことは確認していった方がいいです。
だからこそ、東京で、しんでしまうという嘘のつぶやきは、
どうしようもないぐらい憤りを感じます。
東京では自助作用でデマは少なくなっていきますが、現地では電気が
とおって、TVやインターネットがつながるぐらいまで続く気がします。
(3日〜1カ月ぐらい)
◆神戸の被災の時の2週間〜3か月ぐらいでの状況と、後々思ったこと
@『支援での思い込みはNG』 いらないものがあふれます。
震災1週間が過ぎたころから物資が山ほどきます。
正直ベース、カンペンは美味しくないので、余ります。
2日目・3日目だと食べたかもしれませんが、それ以降は食べたくありません。
幹線道路が近かったため、必要ないぐらいに来る地域だったのかもしれません。
※他、思い出したら追記していきます。
◆うれしかったもの
「自衛隊のお風呂」 (ガスが通るまでは本当に必要で・・)
「ホッカイロ」 (雨が降って、寒いのは本当に耐えれない時があるんです・・・)
「歯ブラシ」 (3日ぐらいはいいんですが、そのあとは必要なんです)
「美味しい缶詰」 (なんだかんだで美味しいものが一番です)
「ウエットテイッシュ」(便利!)
母親が嬉しがっていたもの
サランラップ、カイロ、トイレットペーパー
◆いらなかったもの
「長持ちするだろうと思って送ってくれたカンペン」
「古着」
「水のいらないシャンプー」(興味本位で使ったけれど、ちょっとなれなくてすぐに風呂に入りたくなる)
正直、顔の見える方からであればこちらも気兼ねなく ◎◎がほしいと言えるのですが
公園に古着がどさっとおかれ、救援物資です。といわれても、誰一人とることなく
暖炉の火に変わりました。
実は、3日ぐらいは、意外と食料は、家にあるものでなんとかなるものでした。
両親は、『善意疲れ』と言っていた事も思い出します。
今思うと、正直、顔の見えない人以外に送る場合は、『お金』これが一番いいです。
募金サイトもありますし、ジャストギビングもお勧めです。
A『見たい気持ちで現場に行くことは、絶対にやってほしくないこと』
阪神震災の時に見物みたいな兄ちゃんが来ていて(すぐにわかりますが、、、)
見世物になってしまった時の何とも言えない恥ずかしさと悔しさは思い出します。
家にすぐに住み始める事が出来たわたくしは、まだましでした。
地元の友人は、テントで何カ月も住んでいた時に、本当に悔しがっていたことを
思い出します。
そんな方こそ、ボランティアが必要なんですが、見物目当てで行く人が、
少しでもいると本気のボランディアの方も受け付けなくなる方もいますので、
本気な方以外は被災地にはいかないでほしい。
周りで、そういう気持ちで現地に行く人がいたら絶対に止めてほしい。
体験していないからその人の価値観が変わることもないですし、
何もプラスにはならないです。
今回、自分が出来ることを考えて行動していくかたも多いと思います。その場合も、
・「押しつけ」になっていないか?
・「かわいそう」という気持ちを持っていないか?
を自問自答して行ってほしいと切に願うばかりです。
私も、自分の出来ることを精一杯行っていこうと思います。
◆震災後、ずっと思うこと
まずは、人命救助・その後復興する支援これは言うまでもないですが、
@ 『子供〜高校生には、心のケア・接し方のモラルを持ってほしい』
3ヶ月後・1年後 今の被災地の方とお会いする事も多くなっていきます。
大人は判るかもしれませんが、特に高校生ぐらいまでの子どもと話すときは、
話し手の方が配慮してあげてほしい。
被災の子供と話すときの、僕の結論としては、『お疲れさま、頑張ったね。』の一言でよい。
これもよくないかもしれないが、経験談から言うと、
本当に心配して思いやりを持って聞いてくれる方もいるのですが、
今思うと、明らかに、『興味本位』な質問が多くてたぶんそれは、
胸の詰まる思いやいたたまれない感情を抱いたけれど何も出来なかった
その方の自己満足もあったんだろうなぁと後になって思います。
本当に、それ聞いてどないするん?って今思うと何度も思った質問
・「震災大丈夫だった?」 → そんなわけないやん??TVみてたんやろ!とか・・・
・「周りは大丈夫だった?」→ 祖母が他界しました。聞いた方が言葉を詰まらせるとか。。
・「家は大丈夫だった?」 → 半壊しています。
震災の被災の方は、ほとんどは、大変です。確実に周りの方の誰かは
亡くなっているという前提で話をしてもいいと思う。
特に子供に関しては、何年間は話し始めるまで触れなくてもいいと思う。
最近、神戸の友人と話してやっと震災であったことを踏まえて僕たちは生きている
という事を素直に話し始められています。
でも、大学の時もまだまだそこまで話していなかった。
印象的だった経験は震災7〜8年たったころに大学のころに子供をキャンプに
連れて行って時に、少しの地震で、夜中寝れなくなっていた。
そのぐらい、トラウマになる。
そのトラウマを毎回大人に会うたびにえぐられると思うと理解してもらえると
思います。ちなみに、被災者通しの神戸の人通しは逆に聞かれることも
聞くこともなかった。
A人は「強い!」 どんな環境でも楽しむ感情を持っていること
たとえば、神戸の震災もひどかったけれど、現地では笑顔もあるし、助け合うし
普段接しない人と接するし、意外とテンションが上がるところもあるんです。
僕で言うと、自衛隊の車に乗せてもらったことは初めてでとてもうれしかった
記憶がある。
子供は無邪気で、非日常な事が逆に好奇心をそそる部分もあると思っています。
今、一人暮らしなので被災した場合の気持ちを今の状況で想像するのは難しいですが、
「仕事は何んとかなる!今が大事」としきりに言っていた父を思い出す。
たぶん、今被災しても、仕事より命・家族優先と当たり前に思うのだと思っています。
@Aをつうじて、この被災地と被災地の情報を見ただけの人のギャップがあるという事
を理解して接するべきだと思っています。
被災地の方はその場で同じ環境の人と「前を向いて生きていく」事を絶えずしている。
被災地でない方から「かわいそう」的な感情で接しられると「いやいや、大丈夫ですから」と
いう感情になる。
B天災の時は、ビジネスはしたらあかん!
便乗商売をした企業は地元では絶対につぶれている。
スーパーの◎◎とか地震の後にすぐに値上げをしたことを僕も含めて、
今でも根に持っている人は多い。結局数年後に撤退していった。
今回の渋谷で便乗値上げした会社であったりは、長続きしないはず。
そういう会社はなんだかんだで、離れる。レンタルビデオ屋のPRは許し難い。
被災地で、商売してしまうと本当につぶれる。
そんな商売は持たない。
今の震災の対応としてのIT系サービスの支援事業は本当に素敵な事で、
私は、どんどん利用していくつもりです。
(弊社でも出来る限りのことはするつもりです。)
ただ、保険会社は大丈夫かなぁ?と思ってしまいます。
たぶん、相当被害額になるのに、既に「負担する!」と明言されている。
あと後、震災は適用外です。となった阪神震災の二の舞はなってほしくない。
IT系サービスの情報のスピードに流されず、状況をすべて理解したうえで発表してほしい。
◆まとめると
・今は、『冷静に、自分が出来ることと出来ないことを見極め行動する』
・支援は、顔が見える方がいる方は、その方が必要とするものを送るべきで、
それ以外は、物資ではなく「お金」の方がよい。
・震災後の事も意識して今と同じぐらいのモラルの高さで対応していきたい。
助け合い・思いやりは確実に日本人は皆持っている事が証明されているので、
なおさら、被災された方々と同じぐらい強い気持ちで、絶対に復興する!と信じて
自分がが出来ることをする!そういう気持ちを全員が持つ。
それこそが大事だと思っています。
まずは、今出来ることを精一杯やります。
投稿者:紅志の昨日の出来事 | 投稿日:2011-03-14 22:12:36 | コメント ( 0 )